経営や組織開発の現場で「心理的安全性(Psychological Safety)」という言葉がすっかり定着しました。「メンバーが他人の目を気にせず、安心して発言できる状態」——。確かに、多様な人材の力を引き出し、イノベーションを起こすためには不可欠な土台です。
しかし、ハラスメントを過剰に恐れるあまりに管理職が萎縮し、必要な指導さえも躊躇してしまう「指導放棄」の現場が後を絶ちません。
「部下のミスを注意したら、パワハラだと言われないだろうか……」
「機嫌を損ねて急に辞められたら困るから、言いたいことも強く言えない」
「職場を良くしようと『心理的安全性』を意識した結果、誰も厳しいことを言わない『ぬるま湯』のような組織になってしまった」
本物の心理的安全性とは、決して「お互いに気を遣い合う、ぬるい職場」のことではありません。
むしろ、組織として高い成果を出し、ハラスメントを未然に防ぐためには、職場に適度な「正しいピリッと感(緊張感)」が必要です。
ハラスメントのリスクを抑えつつ、毅然とした指導ができる強い組織をどう作ればいいのか。法律(社労士)の視点と、組織デザインの視点の両面から、具体的な実務対策を交えて詳しく解説します。
1. 現場の管理職を襲う「ハラスメント恐怖症」と、指導放棄がもたらす組織崩壊

その背景には、現代のマネジメントならではの「精神的な負担」があります。
① 現場の管理職が抱える「感情労働」の限界
部下に注意をすれば「ハラスメントだ」と反発され、優しくすれば「なめられる」。自分の感情をすり減らしながら、部下の顔色を窺って言葉を選ぶ管理職の仕事は、一種の過酷な「感情労働」と言えます。
その結果、現場では以下のような機能不全が日常化しています。
- ケースA:業務の遅れやミスを注意できない
締切を何度も破る部下に対し、「なぜ遅れたの?」と少し強い口調で確認したところ、翌日から部下がメンタル不調を理由に欠勤。管理職側が「自分の言い方が悪かったのか……」とトラウマになってしまう。 - ケースB:主体性のない行動を放置してしまう
指示されたことしかやらない部下に対し、「もっと自分で考えて動いてほしい」と伝えたいものの、「価値観の押し付け」と言われるのを恐れ、本心とは違うお世辞を言ってその場を濁してしまう。
② 「優しい放置」がもたらす、さらなるハラスメントの引き金
しかし、問題は「管理職が頼りない」ということだけにとどまりません。
管理職がハラスメントを恐れて指導を放棄すると、職場には以下の3つのリスクが発生します。
- 1.優秀な社員への業務負担の偏りと離職
動かない人を注意できないため、その分の穴埋めが「文句を言わずに働いてくれる優秀な社員」に集中します。結果として、優秀な社員から順番に不満を募らせて会社を去っていきます。 - 2.職場のモラル(規律)の低下
「遅刻をしても怒られない」「ミスをしても有耶無耶にできる」という空気が蔓延すると、真面目にやっている人間が馬鹿を見る組織になります。 - 3.限界を迎えた管理職の「感情の爆発」(本当のパワハラ化)
日頃の我慢が限界に達した管理職が、部下の小さなミスをきっかけに「いい加減にしろ!」と怒りを爆発させてしまうケースです。溜め込んだ末の感情的な一言は、言い訳の立たない「本当のパワハラ」に発展します。
ハラスメントを恐れて指導をしないことは、ハラスメントを防ぐどころか、「未来のハラスメント」や「組織の崩壊」といった将来のリスクを放置しているのと同じことなのです。
2. 心理的安全性=「何でも許されるぬるい職場」ではない

その原因は、「心理的安全性」という言葉の定義の誤解にあります。
① 心理的安全性とは「発言のハードル」を下げるものであり、不問にするものではない
ここで言う「リスクのある行動」とは、「自分の無知やミスを認めること」「チームの意見に対して異論を唱えること」「新しい提案をすること」です。
つまり、「こんなことを言ったら馬鹿にされるかもしれない」「怒られるかもしれない」という恐怖心を取り除き、組織のバグや改善点を早く表に出すための環境づくりを指します。
決して、「遅刻しても怒られない」「成果を出さなくても優しくしてもらえる」「お互いの非を指摘せず傷つけ合わない」という意味ではありません。
② エドモンドソン教授が提唱する「4つのゾーン」

- ① ぬるま湯ゾーン (Comfort Zone)
居心地は良いが、成果が出ない。お互いに嫌われたくないから問題を見て見ぬふりをする、ただの馴れ合いの職場。 - ② 諦めゾーン (Apathy Zone)
指示待ち人間ばかり。お互いに関心がない、冷え切った職場。 - ③ 不安ゾーン (Anxiety Zone)
ハラスメントが横行。ミスをすると過剰に責められるため、隠蔽が起きやすく、常に社員が萎縮している。 - ④ 学習・成長ゾーン (Learning Zone)【目指すべき姿】
信頼関係があり、高い目標に向かって互いに切磋琢磨する。「正しいピリッと感」がある職場。
多くの企業がハラスメント対策や心理的安全性を意識した結果、③の「不安ゾーン」から脱出したものの、そのまま④に行かずに「① ぬるま湯ゾーン」で停滞してしまっているのが実態です。
ぬるま湯ゾーンにいる職場は、一見すると「みんな仲が良く、笑顔が多い職場」に見えます。
しかし、その実態は「お互いに嫌われたくないから、問題点を見て見ぬふりをする」という、非常に脆弱な組織です。
私たちが目指すべきは、居心地の良さ(心理的安全性)を担保しながらも、仕事に対しては一切の妥協を許さない高い基準(責任)を両立させた、「④ 学習・成長ゾーン」です。
3. 共通の「企業理念・目標」があるからこそ、厳しい意見もハラスメントにならない

その鍵となるのが「企業理念(ビジョン・ミッション)を落とし込んだ組織設計」です。
① 「上司 vs 部下」から「上司・部下 vs ゴール」へのシフト
「俺の若い頃はこうだったから」「なんでこんなこともできないんだ!」という言葉は、上司と部下の間に「縦の力関係」しか存在しないため、部下は「攻撃された」と感じ、ハラスメント問題へと発展します。
しかし、もし会社に明確な「企業理念」や「共通の目標(ゴール)」があり、それが全社に深く浸透していたらどうでしょうか。
指導の構図は、「上司が部下をコントロールする」のではなく、「上司と部下が共に同じゴールを目指す中で、その障害となっている行動(ミスや遅れ)を一緒に取り除く」という形に変わります。
- ✖NGな指導(個人への攻撃):
「お前、また資料の数字間違えてるぞ。本当に要領が悪いな」 - ○理念をベースにした指導(ゴールへの軌道修正):
「私たちの会社のバリューは『顧客ファーストの品質』だよね。このデータの誤りは、その品質を満たしていると言えるかな? 一緒に原因を振り返ってみよう」
共通の拠り所(企業理念)があることで、厳しい指摘やフィードバックは「あなた個人の人格否定」ではなく、「会社が目指すゴールに向けた、プロフェッショナルとしての軌道修正」という意味を持ちます。
これこそが、厳しい意見が「ハラスメント」にならないための大前提です。
② これまでの裁判例から見る、「パワハラ」と「正当な指導」との境界線
厚生労働省によると、以下の①から③までの要素のいずれも満たすものを職場のパワーハラスメントの概念として整理されています。
- ① 優越的な関係に基づいて(優位性を背景に)行われること
- ② 業務の適正な範囲を超えて行われること
- ③ 身体的若しくは精神的な苦痛を与えること、または就業環境を害すること
なお、客観的にみて、業務上必要かつ相当な範囲で行われる適正な業務指示や指導については、パワハラに該当しません。
パワハラに該当しないものとして損害賠償請求を認めなかったものとしては、以下のような裁判例があります。
- ●前田道路事件(高松高判平21・4・23)
不正経理の解消や工事日報の作成についてある程度の厳しい改善指導をすることは、正当な業務の範囲内にあり、上司の叱責等が違法なものということはできず、会社にも安全配慮義務違反はなかったとするもの。 - ●医療法人財団健和会事件(東京地判平21・10・15)
厳しい指摘・指導等は医療現場において当然なすべき業務上の指示の範囲内にとどまり、病院についても安全配慮義務違反および不法行為は成立しないとしたもの。
これらから分かるのは、「職場における厳しい指導そのものを一律に禁止しているわけではない」ということです。それが「会社の規律を守るため」「お客様に迷惑をかけないため(=業務上の必要性と正当な目的)」であり、客観的な事実に基づいた指導であれば、それは「正当な業務指導の範囲内」と認められます。
管理職が恐れるべきは「厳しいこと言うこと」ではなく、「事実に基づかない、目的の曖昧な、感情のぶつけ合い(感情的ハラスメント)」なのです。
4. 心理的安全性と適切な業務指導を両立させるコミュニケーションのコツ

① 「人格」と「行動(事実)」を徹底的に分離する(SBIフォーマット)
「やる気がない」「だらしない」といった言葉はすべて主観であり、人格攻撃になり得ます。
指導の際は、客観的な「事実」だけを切り出します。そのために有効なのが「SBIフォーマット」です。
- ●S(Situation:状況):「今朝のA社様とのミーティングの件だけど」
- ●B(Behavior:行動・事実):「提出するはずの資料が、約束の時間の10分後に出されたよね」
- ●I(Impact:影響):「その結果、会議の開始が遅れて、先方の役員の方をお待たせすることになってしまったんだ」
このように伝えることで、部下は「自分自身が否定された」のではなく、「自分の『遅れたという行動』が問題だったのだ」と冷静に理解できます。
② 「I(アイ)メッセージ」で伝える
これを、自分(上司や会社)を主語にした「I(アイ)メッセージ」に変換します。
- ✖Youメッセージ(NG):「お前、なんで報告を怠ったんだ? 本当に報連相ができないな」
- ○Iメッセージ(OK):「進捗の報告がなかったから、私は『プロジェクト全体が遅れているのではないか』と非常に心配したよ。次は状況が変わったらすぐに教えてほしい」
主語を「私(上司)」にすることで、相手への非難ではなく「上司がどう感じたか、どう困ったか」という事実の伝達になり、部下の心理的抵抗感を大幅に減らすことができます。
③ 「心理的安全性」を担保する対話の枕詞(まくらことば)
- ●「今から、あなたのこれからの成長のために、少し耳の痛い話をさせてもらうね」
- ●「プロジェクトの成功(共通のゴール)のために、あえて厳しいフィードバックを伝えるね」
- ●「あなたの評価を下げるためではなく、次のステップに進んでもらいたいからこそ、気になった点を伝えるよ」
【使える枕詞の例】
最初に「目的(あなたの成長、プロジェクトの成功)」を宣言することで、部下は「あ、これはハラスメントではなく、自分のための指導だ」と受け入れやすくなります。
④ ミスの原因を「人」ではなく「仕組み」に求める
- ✖NG:「なんでこんなミスしたの? 気をつけなきゃダメじゃないか」(根性論・人への攻撃)
- ○OK:「このミスが発生した原因は、チェック体制のどこに穴があったからだと思う? 二度と起きないための対策を一緒に考えよう」(仕組みへのアプローチ)
「人は間違えるもの」という前提(心理的安全性)に立ちつつ、「二度と同じミスを許さない仕組みを作る」という高い要求(責任)を課す。これこそが、学習・成長ゾーンのマネジメントです。
5. 経営者・人事労務担当者が整備すべき、従業員保護と組織づくりの実務対策
経営者・人事労務担当者が今すぐ整備すべき実務対策は、次のとおりです。
① 毅然とした指導ができる「会社としての方針」を明確にする
「事実に基づく正当な業務指導は、組織の規律とお客様への価値提供のために不可欠である」「ハラスメントを恐れて指導を放棄することを良しとしない」というメッセージを、経営者が明確に示すことが重要です。
② 管理職研修を実施する
「どこまでは正当な指導なのか」というガイドライン、そして先述したSBIフォーマットなどの「伝え方のスキル」を学ぶ研修を定期的に実施し、管理職の武器を増やしてあげることが必要です。
③ 記録を残し、「組織で判断する」仕組みをつくる
記録がなければ、後から部下から「パワハラだ」と訴えられた際に、会社も管理職を守ることができません。また、記録を残すことで、管理職個人の責任にせず、組織として対応を検討できるようになります。
④ 評価制度・就業規則への「理念・行動指針の連動」
会社の就業規則や人事評価制度に、「理念に沿った行動(チームへの貢献、心理的安全性の確保、かつ高い成果へのコミット)」を組み込み、ルールが曖昧なグレーゾーンを無くしていくことが、最も本質的なハラスメント対策です。
まとめ:就業規則・規程整備は、管理職と組織を守るための実務対策
規程は、問題が起きた後に社員を処分するためだけのものではありません。
むしろ、真面目に悩む管理職が「どこまで指導していいのか」「いつ会社(人事)に報告すべきか」「会社として自分をどう守ってくれるのか」を理解し、安心して毅然としたマネジメントを行うための「お守り」なのです。
「心理的安全性」の本質は、社員を甘やかすことではありません。
社員一人ひとりがプロフェッショナルとして自立し、会社が掲げる大きな目標(理念)に向かって、「言うべきことをお互いに言い合える信頼関係」のことです。
経営者や管理職の皆様が、自信を持って「毅然とした、愛のある指導」を行える環境を作ることこそが、結果としてハラスメントのない、離職率の低い、そして業績の伸びる最高の組織を作ることにつながります。
村井社会保険労務士事務所では、
- ●就業規則の作成・改訂
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